スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Kちゃんから電波受信したので

どうも4カ月ぶりくらいですがブログに復活してみました。
ここ見てる人Kちゃん以外にいるのかな~?(笑)

まあついこないだから春休み突入なので、じわじわブログ復帰を果たしたいさらばんどでございます。
ほんと飽き性なのを一度証明してしまったけれども。
ブログくらい書いて日々の目標でも形にしてみないと、休み中だらけてしまいそうですからね!

とかいって、本当はだらけてる暇もないくらいには課題がいっぱいあるんですけども。
新しく譜読みするのが4曲、3月の発表会で弾くのが3曲、あとはハノンの音階全調、ってとこかな。

音階練習とか本当に嫌いです。やんなきゃ駄目なのは分かってるんですけども。
音楽的には意味のない、メカニックな練習が苦痛にしかならないタイプな私。
だから管楽器の練習とか本当に尊敬します。音階とかロングトーンとか、私はぜーったいに無理。


さてさて。
この間、スコラ・カントールムという合唱団の演奏会に行ってきました。
ルネサンス~バロックの音楽をレパートリーとする合唱団で、私の好みのど真ん中だったりします。

その中で特に印象に残ったのが、J.S.バッハのモテット「イエスよ、わが喜び」です。
バッハのコラールの和声付けは、本当に美しくて感動します。
コラールに限らず、バッハの和声はいつも独特な緊張感が満ちていて素敵ですね。
時々現れる不協和音なんかは、時にロマン派的な感じさえします。

そして歌詞と音楽の構成の説得力が、本当に凄い、と感じます。
バッハの宗教音楽を聴くと、うっかりクリスチャンになってしまいそうなのが怖い。

私はバッハの一部の音楽しか知りませんが、プロテスタントの音楽の歌詞っていうのはどれもこんな強い訴えを持っているものなんでしょうか。
どこか抽象的なカトリックのラテン語による定型文に比較して、プロテスタント・コラールの歌詞なんかは、どれも直接的かつ実際的ですよね。

もちろんそれは詞の成立した時代の違いにもあるとは思うのですが。
世界史の授業で習う、ルターの改革の方針の一つである「分かりやすさ」というのがこういう所に表れているのかな、と思います。
正直、カトリックの詞は何を言っているのか半分くらいしか分からない(笑)
でも、プロテスタント・コラールの歌詞なんかは、頭だけでなく心に訴えてくるようなものが多いように思います。

さらにバッハのモテットは、コラールの合間合間に「ローマ人への手紙」というのが挟まれていて、それらが音楽的にも歌詞的にも非常に優れた効果をあげているように感じました。
それぞれコラール部分への補足的、あるいは具体的説明となるような部分が抜き出され、歌詞としての説得力を強くしています。
音楽的にも、定旋律コラールの間に置かれる様々なキャラクターの楽曲が、全体のバランスを整えているように感じました。

「ローマ人への手紙」なんて書いてみたけれど、私自身は宗教詩や聖書について全く詳しくないんですよね。
もーちょっとこういう事も勉強して、ある程度自分の知識に基づいて楽曲についての考察みたいなことが出来るようになるといいんだけれど。


最後の曲はD.スカルラッティの「スターバト・マーテル」でした。
これも、普段ドメニコのクラヴィーア・ソナタしか聴かない私にはとっても新鮮でした。

和声的で生き生きとした、ややメカニックな要素の強い鍵盤音楽作品とは、全く違う印象。
むしろルネサンス時代のポリフォニー音楽の伝統を、この作品には感じました。
後半部分の技巧的なメリスマなんかは、バロックの香りも感じたけれども。

バッハやスカルラッティに限らず、鍵盤作品だけでなく色々なジャンルの音楽を聴くべきだな、と強く感じました。
今更言うことでもないんだけど。
やっぱりその作曲家の色々な一面を知るべきだと思うし、それが演奏に深みを与える原因となると思うから。


そんなわけで自分への今日の反省で纏めたところで。
次回もちゃんとブログ更新したいなーと思って、今回はおしまいです。

フィギュアの四大陸選手権で素敵な演技をいっぱい見たので、気が向いたらそのことでも書こうかな~。
スポンサーサイト

本番いろいろ纏め

気付いたら一ヶ月間更新してなかったんですね…。
お久しぶりですさらばんどでございます。
風邪ひいて寝込んだりしたけれど基本的には元気です。

風邪といえば。
私はだいたい風邪菌に喉から攻撃されるんですけれども。
今回風邪の治り初めにバイトが入って、ずっとレジ打ちをやっていたら、気付けば声が1オクターヴくらい低くなってました。
いや、ホントに。

何時もは高いaくらいまでは結構普通に出せるんですけども、その時は真ん中のEくらいまでしか出せなくて。
…あれ?1オクターヴ以上下がってる?

そんな状態のままピアノのレッスンに行ったら、「バーのママさんみたいな声だね」と言われました。
いや先生、何故その喩えなんですか。


さて前に言っていたちょっとしたコンクールの予選ですが、無事に通りました!
二次予選が今月末なので、まだまだ気を抜かず頑張らねば、です。

同門の1年生が私の他に2人受けていたのですが、その2人も無事に通過し、3人そろって二次に進むことに。
すごく綺麗な音を持っていたり、安定感のある演奏だったり、2人からはすごく刺激を貰いました。

はてさて私の演奏は、ですが。
今まで本番でワルトシュタインの1楽章を弾いた中では、一番ミスらしいミスが目立たなかった演奏だったと思います。
でもそれは、決していい傾向ではなくて。
「ミスをしないこと」を念頭に置いてしまった、こじんまりした演奏になってしまいました。
思い切りの良さとか、シャープな音色とか、対比の鮮やかさとか、そういったものが犠牲になった印象です。

多分それは、満足のいく練習を積めなかったことも影響してると思うのだけど。
自信の無さがミスへの不安に繋がって、それが自分のこじんまりした演奏に繋がった気がします。
そう考えると、やっばり本番前の調整の仕方が課題の一つかな~。

あとは、良い流れを最初に掴めるかどうか、っていうのが重要だと感じます。
良い流れっていうと抽象的なんだけれど、強いて言うなら多分その要素は二つ。
まず、私の頭の中にある音楽と、現実に響いている音楽が、どれだけ一致しているかという事。
もう一つは、私の知っている感覚と現実の感覚がどれだけ一致しているかという事。

その為には、出だしの練習を沢山するのがまず一つ。
冒頭の調子が良ければ、その勢いに乗れるからね。
あと、感覚を体に覚え込ませること。
こう弾けば上手くいくという確信を、体が知っていてくれるといいですね。

あとは本番に体が固くなったり、だけど、これはまだ対応策が浮かばないかな。
まだまだ行き当たりばったりな感じが拭えないし、体のことはまだまだコントロール外って感じです。


ううむ。人前で演奏するっていうのは、どうにも一筋縄にはいきませんね。当たり前だけれど。
でも久々にこうして言葉にして纏めたら、漠然としたものが形をもって、実感として理解できたような感じです。
だからマメに、日々いろいろ考えて、それをこの場で言葉にして形にしておこうとは思うんですけど。

相変わらずめんどくさがりなさらばんどなのでした。ちゃん。

平均律ってどうなの

いつの間に10月になってるんだとぎょっとしているさらばんどでございます。
なんか何もできないうちに9月が終わった気がします。

しかしながら10月はそうも言ってられません。
ペルティカローリ先生という来日している偉い先生のレッスンあり。
友達の学内演奏会の伴奏あり。
さらに月末にはちょっとしたピアノのコンクールに出ることになりました。

朝練に寝坊したーなんて言ってる暇はないわけですよ。
もっと喝いれて練習せにゃー!

でも、今練習中の曲が多すぎて、あっぷあっぷしてる感じはします。
落ち着いて目の前の曲に向かいあえていないなぁ、と。
黒鍵が終わり、次の曲はエオリアンハープに決まっていますが、すぐに譜読みしないで他の曲に焦点を合わせていこうかと考え中です。


さてさて、ここからはちょっと勉強レポート。
以前書いた「ワルトシュタイン・ソナタはなぜハ長調なのか」についてです。

のはずだったのですが。
あまりに話が深すぎて、ワルトシュタインの話だけでは済まなくなりました。
とりあえず今のところ私が理解できた範囲内で、調性格と作曲家の調選択の重要性についての話をまとめます。


よくよく私たちは、「ヘ長調は穏やか」とか、「ト長調は明るい」とか、調に対するイメージを語りますよね。
あるいはこの調は好き、あの調は嫌い、とか。

でも、現代の「平均律に調律されたピアノ」だけで演奏する分には、調それぞれの違い(=調性格)というものは存在しないんです。
違いを感じるとすれば、それはその調に対する先入観と、単なる音高によってもたらされるものでしかない。
ピアノ以外の楽器においてはまたちょっと違うようですが、それはちょっと置いておいて。

でも、バロックや古典派の作曲家にとっては、「調性格」は現実のものだったわけです。
というのも、当時のオルガンやチェンバロ、ピアノといった楽器は、平均律ではなかったからです。

勉強不足で確信を持っては言えないのですが、当時の楽器は以下のような調律が行われていたようです。
ミーントーン(中全音律)や、そこから派生・改良した様々な音律、あるいはミーントーンとピタゴラス音律を組み合わせたウェル・テンペラメント(キルンベルガー法など)、等々。
バッハの「平均律クラヴィーア曲集」も、これは邦訳が間違っていることは知られてますよね。
この曲名の「平均律」とは、本来上に書いた「ウェル・テンペラメント」を指していたようです。


平均律は全ての音の幅が等しいのが特徴です。
それにより、作曲家はどのような調性も使いこなせるようになった。
つまりこれは、ハ長調もニ長調も変ニ長調も、全て同じ響きが得られるということです。
こんなこと、現代の平均律ピアノに慣れてる私たちには当たり前なことなんですけどね。

でも、当時の音律は、それぞれの音の幅は等しくなかった。
例えばドとレ、レとミは同じ全音であっても、違う幅だったわけです。
そうすると、ハ長調とニ長調では、同じ主和音を弾いたとしても、得られる響きは違う。
ついでに変ニ長調の主和音なんかは、非常に悪い響きを持っていたはずです。

こういったそれぞれの調の響きの違いが、調性格と呼ばれるものです。
こういうイメージ、ではなく、明らかな響きの違い、それに伴う表情と色合いの変化。
バロックや古典派の作曲家にとっては、調選択はすごく重要な意味を持っていたわけですね。

モーツァルトの曲なんかに、♯や♭が少ない調が多く現れるのもそのせいです。
当時の調律法では♯や♭が多くなるほど、響きが美しくなくなります。
一方で♯や♭が少ない調は、いわゆる純正律に近い美しい響きが得られます。

でも一方で、♯や♭が多い、「響きの悪い調」を表現のために効果的に使うこともできました。
例えばバッハのマタイ受難曲やヘンデルのメサイアでは、嘆きや慄きを示すような部分、歌詞で効果的に嬰ヘ長調や嬰ハ長調、ヘ単調などを用いています。
つまり、人にとって不快な響きでもって、悲しみや怒りといった負の感情を強調していた訳ですね。

こうして考えると、慣れきっていた、また完全なものだと思っていた平均律が、決して「優れたもの」と言うことが出来ないことに気付きます。
平均律を選択することによって、あらゆる調を自在に操ることが出来るようになった一方で、表現の可能性を閉ざしてしまったということですね。


さてとりあえずここまでにしときます。
長くなってしまったし。

結局なぜワルトシュタインがハ長調なのか、なんてはっきりとした答えを持てないですけど。
とりあえず、ものすごーく勉強になったし、少なくとも当時の作曲家について調の選択がどれだけの意味を持つのかは理解できてきたと思います。

参考文献は、
「音律について 下巻 ウィーン古典派」
著者 ヘルベルト・ケレタート
訳者 竹内ふみ子
発行 1999年12月
です。

専門的でかなり難しいし、読むのにちょっと根気が必要だけど、興味がある方はぜひどうぞ。
私もまだ半分くらいしか読めていないのだけど、とても勉強になります。


以下は拍手おへんじ。

→続きを読む

プロフィール

sarabande

Author:sarabande
どうも音大生であるらしいピアノ弾き。
基本的に面倒くさがりな三日坊主。
生きていることとピアノを弾く事以外、長く続いたことはありゃしません。
このブログは3日と言わず3ヶ月ぐらい続くといいなぁ。

現在練習中...
J.S.バッハ
平均律第1巻 第17番
フランス組曲 第2番

ショパン
エチュード op.25-1,2,11
ノクターン 第13番

シューベルト
ソナタ第13番 op.120 イ長調
カテゴリ
最新記事
最新コメント
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。